【書評】はやみねかおる『モナミは世界を終わらせる?』(角川書店、2011年)-本作は「1970年代日本SFジュブナイル」の伝統を、森見登見彦『夜は短し歩けよ乙女』(2006年)的ポップなセンスを持ち込んで、引き継いだ、今日における「SFジュブナイル」の代表作である。アイデアとしては主人公の女子高生モナミの学校周辺の日常的なドタバタと中東情勢の緊迫が「シンクロ」しているというSF的発想である。あらかじめ、「1970年代日本SFジュブナイル」で私が、傑作であると今でも思う本が3冊ある。眉村卓『ねらわれた学園』(角川文庫、1973年)、筒井康隆『時をかける少女』(角川文庫、1967年)、平井和正『超革命的中学生集団』(朝日ソノラマ、1971年)である。1980年代まで範囲を広げると、新井素子『いつか猫になる日まで』(集英社文庫コバルトシリーズ、1981年)が入ってくるだろう。「1970年代SFジュブナイル」とは、「SF」が文壇から異端視扱い・冷遇され、力のあるSF作家が、発表の機会を求め、「SF=子供が読むもの」という出版社・文壇主流の考えにより、少年誌などに発表された作品である。その後、1980年代、村上龍・村上春樹という、文壇の新世代自らがSF的アイデアを導入し、筒井康隆が「純文学」として評価されるようになり、SFというジャンルそのものが拡散・衰退してしまった(例外は神林長平)。『モナミ』は上記3冊のなかでも、『ねらわれた学園』と大分テイストが似ている。もちろん、時代が違うので、高校生活のあり方も違うのだが、その変化を朝井リョウ的な線でなく、「健全」に描いているのが、今日の中高生に将来への希望をいだかせると言う点で、朝井と180度違う(『桐島』読んで未来に希望をもつ高校生などいない)。『学園』含め「1970年代日本SFジュブナイル」と『モナミ』の共通点は、中高生の時期に特有の「自分-学校-世界」の「一体性の喪失」の危機・アイデンティティの危機を、SF的アプローチで克服している点にある。たとえば、『ねらわれた学園』でも、なぜ、平凡な、どこにでもある一高校に「魔の手」が延ばされるか、必然性は、SF的アプローチをとらなければ、物語として成立しないのである。この点、平井『超革命的中学生』では、宇宙人から特殊な作用を与えられた中学生の集団が超人化し、中学生集団が世界を支配するかどうかをめぐって分裂・対立するという後の『幻魔大戦』の伏線となる傑作で、これは作家の作風の違いがあるのであろう。